takashiskiのブログ

覚書の殴り書き

子どもとの「約束」とはいったいなんなのか

ここ三日くらいずっと高嶋ちさ子ネタがくすぶり続けてますね。

今朝以下の記事見て思うことがあったので雑に書きます。

matsutake.hatenablog.jp

「約束は守らないといけません」、この言葉自体に詭弁や情状酌量なんかでなしに面と向かって異論反論をぶつけられる人はなかなかいないのではないでしょうか。一般に誰が聞いてもこれは「正論」というやつです。

この部分が非常に引っかかるのです。

約束はルールと言い換えられる場合もあります。「ルールは守るためのもの」とどこぞの誰かが言っていましたがその一方で「ルールは破るためのもの」と考えてる人もいます。 その境界はいったい何でしょうか。

私は「その約束によって利益を享受できているか」が分岐点だと考えます。その約束を守り続けることで利益が発生するなら守ろうとするでしょう。利益を損なうなら、破ろうとするでしょう。

大人が子供に対して定めるルールや約束というものは、往々にして大人が一方的な利益を享受して子供が一方的に不利益を被るものです。そんな状況で子供は素直に約束を守るでしょうか?守るはずないですね。守るとすれば、虐待を受けているか、自分が望んでその立場にいるからです。

ならどうすればいいかというと、話し合って調整していくことだと思います。とりあえずルールを作った後に「ここがこういう理由で厳しいからこうしてくれ」「それをやられると困るここまでにしてくれ」と随時ルールを更新していくべきです。歩み寄りましょう。そして合理的な理由がないルールに関しては合理性がないことを理由に突っぱねられる必要があります。

高嶋ちさ子は「ジャイアンのような人」「デビル」とのことですが、まさにそういうことなんでしょう。暴力による支配です。世紀末です。もう201X年なのに。こんな人が「信頼」って言葉使うの、最高に馬鹿っぽいと思います。約束をするには信頼関係が必要ですが、恐怖による支配にはそんなもの必要ないですから。

 

ここまで考えて、大人でも「ずーっとこれでやってきてるから」「そういうものだから」「そういう決まりだから」でなぁなぁでやってるケース多いからそういうことができない社会なのに家庭内でできるはずないな、と気付いてしまった...